神の力を制御する……それは言葉にするのは簡単だが、やるのはそう簡単な事ではない。そもそもが、今の我の肉体でも持て余すだけの力をそもそもが貰ったのだ。それだけの力をポンとくれるとは流石神と名乗るだけはあると思う。
そして神という存在は、この程度の力を気軽に渡せるほどに我らとは力の総量が違うという事なのだろう。なにせもしも我に渡した力がもしもあの神の半分もの量だったらどうだろうか? 渡すだろうか? 流石に半分もの力は渡さないと思われる。じゃあ三分の一、四分の一か? それでもどうだろうか?
怪しい。我はこの程度の力はあの神の力のそれこそ十分の一……それかもっともっと小さいのではないかと思ってる。気軽に渡せる程度の力というのは、そういう単位になる……ではないだろうか?
まあ我なら、我の力の一部を少しでも分け与える何てことは絶対にしないがな。力のひとかけらでも、それは我であるからだ。
(我は力というものとずっと対話してきた)
生まれたときから、強大な力というものに身を焦がされてきたのだ。戦いの中、常に力を求めて、そして使いこなせなければ、自身が終わる……そんな中、常に我は勝ってきた。だからその実感がある。別におかしくなったわけではない。
力にも色々とある。我の中にあった力は餓えだった。常に餓えた力だ。そういう特性を持っていた。だがこの神の力はなにもない。だからこそ、よくわからない。そしてそのなにもない力に一番に反応したのが、この体そのもの。純粋な力を一番そのまま受け入れられるものがこの体だったのだろう。
そういう体だからこそ、我や勇者の魂までも受け入れて、普段はその姿を再現してるのだろうしな。だがまさか我自身よりも親和性が高いとは……もしかしてこれもあの神の想定通りか? あの神はシザーラス人の事もそれなりに詳しそうではあった。
ならこの体の事だって知っててもおかしくはない。無垢なる力が、我という魂よりも、無垢であるこの体に馴染むのはわかってたのかもしれない。だがそうした時のメリットはなんだろうか? いや、今はあの神の思惑よりも、一刻も早くこの力を制御する事だ。
だがこれには賭に出るしかない。今まではなんだかんだジゼロワンに貰った力を我色に染めて、そしてそれは確かに我の力だった訳だ。そういう風にしやすいようにあいつがしてたんたろう。そしてそれには危険はなかった。だが、この神の無垢なる力はそうではない。そして圧倒的に向こうが強大だ。
今我は、この体の中で我のこの意思、魂とでも呼ぶべきものを自身の力を集める事で自我を保っている。だが、それでは駄目なのだ。力と力の邂逅は対話だ。それは我がよくわかってる。つまりは今は我はこの神の力に自身からそっぽを向いてる。それでは我らの壁は隔たったばかりで縮まる事はない。
つまりは……我はこの力を受け入れる……いや、我自身をこの力に溶かさないといけない。そしてそれは比喩ではない。この神の力よりも我の力が純粋に強大であったなら、我の力の色に染める事は難しくなかっただろう。だが、我の方が圧倒的に小さい今、我が溶ける。そしてその後……どうなるかは正直わからない。
上手くいけば、混ざり合った先で我は目覚める事が出来るだろう。それこそさらなる力を手にして……だ。だが……もしかしたらこの無垢に晒されて我自身が無垢へと戻る可能性もある。その場合は我という存在はこの世界……いや全世界から消え去るのだろう。
(面白い!!)
我はそんな賭けで引くような存在ではない。なぜなら我は魔王。なら我が消えるはずなどないからだ!!